前回まで4回にわたって採り上げてきたグレイトフル・デッドだが、そろそろ切り替えなければ…
そこで前回採り上げた「ブルース・フォー・アラー」と同じ1975年にリリースされたアルバムで何かないか探してみた。
ということで、今回の「レコード評議会」は…
John Lennon
Rock 'N' Roll
UK盤(1975年)
Apple Records
PCS 7169
SideA:SK-1-3419-Z9 1 MCR YEX 943-1U MG
SideB:SK-2-3419-Z9 6 YEX 944-1U OT




SideA
1. Be-Bop-A-Lula
2. Stand By Me
3. Medley :
Rip It Up / Ready Teddy
4. You Can't Catch Me
5. Ain't That A Shame
6. Do You Want To Dance
7. Sweet Little Sixteen
SideB
1. Slippin' And Slidin'
2. Peggy Sue
3. Medley :
Bring It On Home To Me / Send Me Some Lovin'
4. Bony Moronie
5. Ya Ya
6. Just Because
ジョン・レノンの1975年アルバム「ロックン・ロール」。
ビートルズのデビュー前からジョンが親しんできた、50年代から60年代初めの曲のカバーのみで構成されたアルバムである。
ロックンローラーとしてのジョンと言えば、ビートルズ時代の "Twist and Shout"、 "Money"、 "Slow Down"、 "Dizzy Miss Lizzy"、 "Bad Boy" などが真っ先に浮かぶが、本作でもそんなジョンが堪能出来る。
ロックンローラーへの原点回帰、ないしはロックンローラーとしての再確認といったコンセプトのアルバムと言えるだろう。
だが、このアルバム制作に当たって様々な厄介ごとがあったことは有名な話だ。
アルバム「マインド・ゲームス (当時の邦題:ヌートピア宣言、Mind Games)」のレコーディングを終えたジョンはオノ・ヨーコと別居し、1973年9月にニューヨークからロサンゼルスに移って秘書のメイ・パンと同棲生活を始めた。18ヶ月にわたる「失われた週末」の始まりである。
当時、映画「アメリカン・グラフィティ」によって時代がオールディーズ・リバイバルの機運に包まれていた。
1973年10月、ジョンは次回作をオールディーズのカバー・アルバムとし、フィル・スペクターをプロデューサーに迎えて、アルバム制作を開始した。
しかし、フィル・スペクターはセッションが進むにつれて精神的に不安定となり、ついには同年12月にマスターテープを持ち去ったまま失踪してしまった。後に1974年半ばにテープは回収されたものの、アルバム制作は中断せざるを得なくなった。
その傍らで、ジョンは訴訟問題を抱えていた。
ジョンが作曲のビートルズ楽曲"Come Together"がチャック・ベリーの"You Can't Catch Me"に似ているとして、出版権者モリス・レヴィより著作権侵害で訴えられていたのである。彼が権利を持つ楽曲のカバーを含むアルバムをリリースするというのが和解条件であった。
このため、ジョンはニューヨークに戻って「心の壁、愛の橋 (Walls and Bridges)」の制作が終わった後、1974年10月にカバー・アルバムの制作を再開する。
ニューヨークでセッションを行い、そこでの9曲とロサンゼルスでの4曲(フィル・スペクターより回収したマスターテープからの4曲)、合計13曲でアルバムは漸く完成した。
当初タイトル案は「Oldies But Mouldies」(Mouldyはカビ臭い、古臭いという意味)だったが、最終的に「Rock 'N' Roll」となり、1975年2月にリリースとなった。
なお、同時期にモリス・レヴィがカバー曲のラフ・ミックス(ジョンがアルバム制作状況を確認してもらうためにテープを渡したもの)をもとに自身のレーベルから「ルーツ (Roots : John Lennon Sings the Great Rock & Roll Hits)」なるアルバムを勝手にリリースするという事態が起きている。
EMI/キャピトルを通さずに収益を得ようという目論見だったのだが、同社から訴えを起こされ、差し止めとなった。
オノ・ヨーコとの別居、メイ・パンとの同棲生活、失われた週末、フィル・スペクターの失踪、セッションの中断、モリス・レヴィとの訴訟問題、「ルーツ」の発売と差し止め…
…といった様々な厄介ごとの末にリリースとなったのが、このアルバムなのである。
ジョンの作品の中でも、最も混乱の中から生まれたアルバムと言えるのかもしれない。
とは言え、先に記載の通り、生粋のロックンローラーとしてのジョンが堪能出来るアルバムであり、裏にこの様な混乱があったことなど、一切感じさせない。
ノリの良い曲ばかりが並んでおり、聴いていると自然に足がリズムを取ってしまう、体が揺れてしまう、そんなアルバムである。
と、一般的なことはこれまでにして、ここからは色々な角度からあれこれ書いてみたいと思う。
"Stand By Me"について
ベン・E・キングのカバーで、1974年10月のニューヨークでのセッションによるものだ。シングル・カットされ、アメリカではビルボード20位のヒット。本アルバム中で最も有名な曲である。
一説では、"Stand By Me"(私の側にいて)は別居中のヨーコへのメッセージではないか、とされている。
折しも、1975年2月のアルバム「ロックン・ロール」リリース直前にジョンはヨーコと再び一緒に暮らすこととなっている。まるでジョンのメッセージがヨーコに届いたかの様である。
一方で、この曲に関連しては、こんなエピソードがある。
1970年4月にビートルズが事実上解散して以来、バンドの法的な手続きに関する裁判の決着が付いていなかったこともあり、ジョンとポールは個人的に連絡を取ることが無かった。
1974年3月28日、ニルソンのアルバム「プシー・キャッツ」のプロデューサーを務めていたジョンは、リンゴらともにロサンゼルスのバーバンク・スタジオにいた。
レコーディング・セッションが終わりリンゴらは帰ったが、スティーヴィー・ワンダーが来て(近くのスタジオで「ファースト・フィナーレ」のミックスを行っていた)、残ったメンバーとでジャム・セッションが行われることになった。
そこに突然ポールとリンダがやって来た。
アカデミー歌曲賞に"Live And Let Die (007 死ぬのは奴らだ)"がノミネートされていたことから授賞式に出席するため、ロサンゼルスに来ていたのだった。
ジョンがボーカルとギター、ポールがコーラスとドラム(リンゴのドラムセットを叩いた)を務めた。マル・エヴァンス(ビートルズ時代からの友人でローディー)もタンバリンで参加した。
酒やクスリに浸かった状態の中、ブルースのジャム・セッションの他、"Lucille"や"Stand By Me"といったオールディーズも演奏された。
その際の音源を収録した海賊盤「A Toot And A Snore In '74」
ジョンは10月に再開したカバー・アルバム制作に当たって、ポールとのセッションを思い出しながらこの曲を演奏したのではないだろうか。
そして「隣りで一緒に曲を作ったりしたよな」というポールに対する想いを込めて、"Stand By Me"(俺の隣りにいてくれよ)と歌ったのではないだろうか。
真相は分からないが、そうであって欲しいと思うのは私だけでは無いだろう。
"You Can't Catch Me"について
チャック・ベリーのカバーで、1973年10〜12月のロサンゼルスでのセッションによるものだ。
先述の通り、"Come Together"が"You Can't Catch Me"に似ていると出版権者モリス・レヴィより著作権侵害で訴えられ、和解条件として収録された曲である。
もともと"Come Together"は、以下の様な経緯で作られた曲。似ているのもさもありなんといった話だ。
1969年、ティモシー・リアリーはカリフォルニア州知事選に「Come Together - join the party」というスローガンを掲げて出馬表明。その際、ジョンにキャンペーン・ソングを作って欲しいと依頼した。
ティモシー・リアリーについては、以前にB-SELSで買ったこのレコードの記事にも書いてあるのご参考まで。
☞ Give Peace A Chance / Plastic Ono Band【デンマーク盤】
ジョンは、チャック・ベリーの曲をもとに選挙スローガンを使って曲を作った。
後に1980年9月のインタビュー(1981年1月雑誌Playboyに掲載)で、こう話している。
"Come Together" was based on a Chuck Berry thing.
I wrote it for Timothy Leary’s campaign. It was a chant.
"Come Together"はチャック・ベリーの曲をもとにして作った。
ティモシー・リアリーの選挙キャンペーンのためにチャント〜繰り返し歌われる形式の掛け声の様な曲〜を作った。
この様な歌詞だったと言う。
Come together, join the party
Come together, right now
Don’t come tomorrow, come today
Come together, join the party
Come together, right now
ところが、ティモシー・リアリーはマリファナ所持により逮捕され、選挙活動を断念。
そこで、ジョンはこの選挙キャンペーン・ソングをビートルズの曲として作り直した。その結果、出来上がった曲が"Come Together"である。
ということで、ジョンによる"You Can't Catch Me"のカバーを聴いてみると、ぶつ切りに喋る様な独特の節回しと言い、重く粘る様なリズムと言い、"Come Together"に似ている。
と言うよりも、"Come Together"は"You Can't Catch Me"のパクリだったのか、というほどそっくりである。
ところが、チャック・ベリーによる原曲を聴いてみると、その印象は一転する。アップテンポのノリの良い曲であり、ジョンによるカバーとは全然違うのだ。
当然ながら"Come Together"とは似ていない。強いて言えば、喋る様な節回しが少し似ているかな?といった程度である。
モリス・レヴィは何をもって著作権侵害だと主張しているのだろう?
ということで、調べてみたところ…
・Here come (old) flat-top のところが同じ歌詞である
"You Can’t Catch Me":Here come a flat-top / He was ...
"Come Together":Here come old flat-top / He come ...
(頭頂部を短く平らに刈り込んだ角刈り頭の奴がやって来た)
・喋る様な歌い方、アクセントの置き方が似ている
…とのことだそうだ。
うん? これで著作権侵害? 難癖・言いがかりの類ではないか?と思わないでも無い。
が、当の本人であるジョンはあっさりとチャック・ベリーからの影響を認めたと言う。
チャック・ベリーについて、ジョンはこんな発言をしたことがあるそうだ。
If you tried to give rock and roll another name, you might call it ‘Chuck Berry’.
ロックンロールに別の名前をつけるなら、まあ「チャック・ベリー」ってことになるだろうね
いつの発言なのかはっきりせず、真偽不明ではあるものの、ジョンがチャック・ベリーをリスペクトしていたのは間違い無い。
「著作権侵害だ」と言われたジョンは、こう答えたのだろう。
何を言っているんだ?そりゃチャック・ベリーの曲みたいになることもあるさ。あるに決まっているじゃないか。ロックンロールをやっているんだから
"Come Together"とそっくりに聴こえる様、テンポを落として重く粘る様なリズムで"You Can’t Catch Me"をカバーしているのは、明らかにモリス・レヴィに対する皮肉だ。
同時にチャック・ベリーに対するリスペクトでもあるのだろう。
なかなかウィットに富んでいる。
こんなことをするのは全くもってジョンらしい、と思う。
ロサンゼルスでのセッションについて
フィル・スペクターがプロデューサーを務めた1973年10〜12月のロサンゼルスでのセッションは、A&Mスタジオとレコード・プラント・スタジオで行われている。
左:A&Mスタジオ 右:レコード・プラント・スタジオ
ここでのセッションによる収録曲は以下の4曲である。
A4. You Can't Catch Me
A7. Sweet Little Sixteen
B4. Bony Moronie
B6. Just Because(ボーカルはニューヨークで取り直し)
このセッションでは、セッション・ミュージシャンが数多く参加している。
途中でフィル・スペクターが失踪したために正確な記録が残されていないのだが、諸々のインタビューや記録などから30人以上、一説では50人程度のミュージシャンが参加しているということである。
あのジョン・レノンがオールディーズのカバー・アルバムを制作するということで、ロサンゼルスにいるミュージシャンが参加したがり、入れ替わり立ち替わりスタジオに来ていたらしい。
その中には、スティーヴ・クロッパー、ラリー・カールトン、ホセ・フェリシアーノといった有名なギタリストもいたらしい。
また、キーボードではレオン・ラッセル、 マック・レベナック (ドクター・ジョン)も参加しているらしい。
その様な背景を踏まえて聴いてみると…
ニューヨーク録音の曲も熱い演奏ではある。だが、ロサンゼルス録音の曲の方がより高い熱量を感じさせる。
あのジョン・レノンのアルバムにクレジットされるかも知れないということで、セッション・ミュージシャン達の熱量が高かったのだろう。
またジョンについても、ニューヨークではプロデューサーとして全体を取り仕切る立場だったのに対して、ロサンゼルスでは「いちロックンローラー」「いちボーカリスト」として自分の思うがままに歌っていれば良かった。
そんなジョンの声が"You Can't Catch Me"、 "Sweet Little Sixteen"、 "Bony Moronie"にはよく表れている。
言ってみれば、ジョージ・マーティンのプロデュースの下で "Slow Down"、 "Dizzy Miss Lizzy"、 "Bad Boy"といったロックンロールを好きな様に演っていたビートルズ時代のジョンを彷彿とさせる、そんなジョンの声なのだ。
個人的には、ニューヨーク録音よりもロサンゼルス録音のセッション・ミュージシャン達の演奏とジョンの声の方が好きである。
ただ、ジョン自身はフィル・スペクターより回収したマスターテープ(ロサンゼルスの音源)の内容に満足できず、結局ニューヨークで9曲も録音している。
"You Can't…"、 "Sweet…"、 "Bony…"の3曲だけがOKの出来で、他はイマイチだったのかも知れない。
デッドワックス / マトリクスについて
この盤はUK盤である。US盤では無い。
ところが、デッドワックスにはこの様に刻印がなされている。
SideA:SK-1-3419-Z9 1 MCR YEX 943-1U MG
SideB:SK-2-3419-Z9 6 YEX 944-1U OT
赤字:手書き / 青字:機械打ち
青字で機械打ちされたA面「YEX 943-1U」、B面「YEX 944-1U」は英EMI特有のマトリクスである。
そしてA面「1 MG」、B面「6 OT」もEMI特有のマザー・ナンバーとスタンパー・コード(GRAMOPHONEコード)である。
一方、赤字で手書きされたA面「SK-1-3419-Z9」、B面「SK-2-3419-Z9」は米Capitol特有のマトリクスである。
そして「MCR」はニューヨークのMaster Cutting Roomでカッティングされたことを意味している。
これはどういうことなのだろう?
そこで、このアルバムのUS盤のマトリクスをDiscogsで見てみると、「SK-1-3419-Z⚪︎(数字)」「SK-2-3419-Z⚪︎」「MCR」といった刻印があるとのこと。
そうか、なるほど… この盤はUSマザーのUKプレス / UK盤ということなのだ。
さらに調べてみると「マインド・ゲームス」「心の壁、愛の橋」でも同様のことが行われていた。
ビートルズでもある様に、UKマザーのデンマーク盤やノルウェー盤など、人口が少ない国ではよくあることだが、イギリスでもこういうことがあるのか…
ローリング・ストーンズやレッド・ツェッペリンは70年代中頃より音の均質化を図るため、アメリカでカッティングしてメタル・マザーを各国に送っていたというから、珍しいことでは無いのだろうが、ちょっとした驚きであった。
アルバム・ジャケットについて
このジャケットはデビュー前の1961年にドイツ・ハンブルグで撮影された写真である。
1974年9月、ニューヨークで開催された第1回ビートルフェスト(Beatlefest / The Fest For Beatles Fans)に顔を出したメイ・パンは、ハンブルク時代のビートルズの写真を販売していたドイツ出身のカメラマン、ユルゲン・フォルマーと出会った。彼は20数歳の頃、ツアーでハンブルクに来ていたビートルズを撮影していたのだった。
メイ・パンからの連絡を受けたジョンはユルゲン・フォルマーと再会。彼が撮影した写真の1枚をアルバムのジャケットに選んだ。
その写真がこれである。
前を横切るのは左からポール、ジョージ、スチュアート・サトクリフ。
この時の写真は他にもある。
ユルゲン・フォルマーが撮影した当時のステージ写真も残されている。
1975年4月にジョンはユルゲン・フォルマーに手紙を送っている。2月にアルバム「ロックン・ロール」が発売されているので、その2ヶ月後の手紙である。
親愛なるユルゲンへ
「Rock ’n’ Roll」を気に入ってくれて嬉しいよ。ミュージック・ブック(楽譜集 ※1)はもっと良い出来だ。もし持っていなければ、コニーに頼んでくれ。
君の撮った写真のことは覚えている。パリで会ったこともよく覚えているよ。自分があれほど多くのことを覚えていることに、むしろ驚いているくらいだ!(例えば、ハンブルクにいた君の友人の美しいバレリーナのこととかね… あの時は運がなかった!)
さて、君のために何を書けばいいのかよく分からないが… まあ書いてみよう。
" ユルゲン・フォルマーは、ビートルズの美しさとスピリット(自分で言うのも何だけどね)を最初に捉えた写真家だった。ドイツ・ハンブルクから戻った後、僕たちは彼のような感性を持つ写真家を必死に探したが、誰一人として見つからなかった。彼はロッカーズとロックンロールを愛していた。彼の写真が、それ自体ですべてを語っている。" (※2)
こんな感じでどうかな。
もっと書いた方がいいか、それとも少ない方がいいか、教えてくれ。
愛をこめて
ジョン
1975年4月
追伸
マクミラン社から本がもうすぐ出版される。アラン・ウィリアムズ(俺たちを最初にハンブルクへ連れて行った人だ)が書いたものだ。内容は、ブライアン・エプスタイン以前のリヴァプールとハンブルク時代の「奴ら」についての話だ。タイトルは「The Man Who Gave Away The Beatles」(※3)。結構面白くて ー そして切ない本だ。
(※1) ミュージック・ブック(楽譜集)とはこれと思われる。
(※2) 1976年に出版されるユルゲン・フォルマーの写真集「Rock 'N' Roll Times」に序文(推薦文)として掲載される。
(※3) 正しいタイトルは「The man who gave the Beatles away」(ビートルズ手放した男)である。
1976年に出版される写真集「Rock 'N' Roll Times」への序文(推薦文)を頼まれた際の手紙なのだろう。
短いながら、ユルゲン・フォルマーへの敬意とともに、在りし日への懐かしい想いに満ちた手紙である。
裏ジャケットにはユルゲン・フォルマーの名もクレジットされている。
Photographs : Jurgen Vollmer
それにしても、メイ・パンが偶然にも写真を見つけたことから、それがアルバム・ジャケットを飾ることとなり、ジョンとユルゲン・フォルマーとの旧交を温めることにも繋がった訳だ。
そう考えると、このアルバムにおけるメイ・パンの果たした役割は少なく無い。
裏ジャケットにはこの様にクレジットされている。
Production Coordinator and Mother Superior : May Pang
製作コーディネーター及び"Mother Superior"とある。
製作コーディネーターとは、ジョンもなかなか粋なクレジットをしたものだ。
では、"Mother Superior"とは何なのか?
本来はカトリック修道院の「女子修道院長」を意味する言葉だが、そこから派生して「権威・規律と母性・慈愛を併せ持つ存在」の象徴としてジョンは使っているものと思われる。
早くに母親を亡くしたジョンにとって「精神的な拠り所」といった意味合いでもあるのだろう。
この言葉は、ビートルズの「ホワイト・アルバム」に収録の"Happiness Is A Warm Gun"でも使われているが、その際はオノ・ヨーコを指しているとされる。
そんな"Mother Superior"をメイ・パンに与えているのだから、当時の彼女の存在はジョンにとって大きかったのだろう。
このアルバムがリリースされる直前にジョンはオノ・ヨーコと復縁している。そのことを踏まえると、それまで支えてくれたメイ・パンへの感謝という意味もあったのかも知れない。




以上、あれこれ書き散らかしてしまった。
ビートルズ絡みになると、どうしても長くなってしまう。
と言うか、そろそろ禁断症状が出て来たということか…
(追記)
この記事について、B-SELSで紹介いただきました。
ご店主、ありがとうございます。
春には行くとしよう…





















