誕生日のプレゼントに妻がこんな本を見つけて買ってくれた。
鑑識レコード倶楽部(The Forensic Records Society)
マグナス・ミルズ(Magnus Mills)著
柴田元幸訳
オビに寄せられたピーター・バラカンさんのコメントを見るとこうある。
「持ち寄ったレコードを黙って聴き、意見を一切言わない。この極度のオタク行為に潜む意義はあるのか、答えはまだ出ませんが、一気に読んでしまいました」
本を開くと、こんな文章から始まる。
「'I saw you!'(見えたぞ!)」
俺たちはじっくり聴いた。声はわずかに離れているみたいに、隣りの部屋から出ているみたいに聞こえた。ぼやっとした無音状態があとに続いた。
ジェームズは徐々に停まろうとしているターンテーブルをじっと見た。
「いまの、キースだな」
「確かか」俺は訊いた。
「ああ」
「ロジャーじゃないのか」
「違う」
ジェームズはもう一度レコードをかけた。これで3度目。約束の回数だ。だからジェームズは終わると盤をターンテーブルから取り上げてスリーブに戻した。そうしながら、レーベルをちらっと見た。
「最高の音楽だ」ジェームズは言った。
俺は椅子から立って、窓の前に行った。外は一面、雪に覆われていた。
「あのさ、気づいてるか」俺は言った。「いま、地球上でこの曲聴いてたの、たぶん俺たちだけだってこと」
書籍名の「鑑識レコード倶楽部」から、マニアックなレコード解説本かと思ったら、超マニアックな小説だった。
ということで、今回の「レコード評議会」はこのシングル盤。
Happy Jack(7" Single)
UK盤(1966年)モノラル
Reaction
591010
SideA:X̶PX̶ 591010 A//8 1 1
SideB:591010 B ▽ 1 1 1
A:Happy Jack
B:I've Been Away
ザ・フーのシングル盤"ハッピー・ジャック"。
ロジャー・ダルトリー:ボーカル
ピート・タウンゼント:ギター、ボーカル(コーラス)
ジョン・エントウィッスル:ベース、ボーカル(コーラス)
キース・ムーン:ドラム
一風変わった童謡と言うか、コミック・ソングの様な曲だが、"My Generation"(2位)、"I'm A Boy"(2位)に次ぐ英国シングル・チャート3位のヒット曲。米国でも初めてチャートのトップ30に入った曲だ。
ピートの「I saw you!」という声が曲の最後に入っている。
ロジャーのボーカルにコーラスを付けるのはピートとジョン。
歌唱に難ありとして外されたキースは、何とか歌わせてもらおうと、ボーカルブースにそっと近付く。
それを見つけたピートがキースに対して「I saw you!」(おい、見えてるぞ!)と言っているのだ。
で、「鑑識レコード倶楽部」の冒頭部分は、このシングル盤を聴いている主人公(俺)とその友人(ジェームズ)の会話なのだ。
文章の中には「ザ・フー」とも「ハッピー・ジャック」とも出てこない。
そして主人公はこう言う。「いま、地球上でこの曲聴いてたの、たぶん俺たちだけだ」と。
なんのこっちゃ。分かる人には分かるけど、分からない人には意味不明な、何ともオフビートな会話だ。
で、この小説「鑑識レコード倶楽部」はずっとこの調子で物語が進む。
主人公の友人が、パブの別室で月曜日の夜9時に持ち寄ったレコードを聴く会「鑑識レコード倶楽部」を立ち上げる。
ルールは、レコードを黙って聴くこと、意見を一切言わないこと。そして時間厳守(9時に遅れたら参加不可)。
仲間とレコードを聴くことに飢えていた人は多く、メンバーは4人、5人、6人と増えていく。
だが、厳格なルールは変わらない。ストイックに唯々黙って聴く。だが意見は許されない。
そのうち、敵対勢力が「告白レコード倶楽部」を立ち上げる。
また厳し過ぎるルールに仲間が「認識レコード倶楽部」や「新鑑識レコード倶楽部」といった分派を立ち上げる。
そんなこんなで「鑑識レコード倶楽部」は存続の危機に晒されるが、最後は皆が仲直りして一緒にレコードを聴く。
…とまあ、そんな話だ。
なお、登場人物の背景は一切書かれていない。何歳なのか、日頃何をしているのか、全く分からない。
そして、レコードを聴くシーンでは、曲名だけは明らかにされているが(歌詞の一部だけの場合もある)、アーティスト名は書かれていない。読者が分かっているという前提で会話がなされて行く。
何とも言えないオフビート感、ユーモアが感じられ、なんのこっちゃ、と思いながら読めてしまう。
しかも、出てくるレコードが60年代から80年代のものなので、ここでこれを聴くのかぁ、と面白く読めてしまう。
はっきり言って、変な小説だ。
万人向けでは決して無いし、音楽に興味が無い人にとっては、全く面白く無い小説だろう。
だが、ハマる人は間違いなくハマる。
ハマる人にとっては、絶品と言えるかも知れない。
ご興味ある方は是非どうぞ。
と、小説「鑑識レコード倶楽部」についてのあれこれが長くなってしまったが、「レコード評議会」なのだから、"ハッピー・ジャック"について書かねばならない。
先に記載の通り、一風変わった童謡と言うか、コミック・ソングの様な曲だが、大いにヒットしている。
マン島に住むハッピー・ジャックというちょっと変わった人についての歌。
ピートが幼少の頃に父と訪れたマン島での経験が元になっているのだと言う。
はっきり言って、変な曲だ。
歌詞の内容も、曲調もおかしな感じで、何でこんな曲がヒットしたのか、正直よく分からない。
「鑑識レコード倶楽部」でも「だいたいこの歌、手の込んだジョークだったんだよ。歌詞だってとことん幼稚だし」と書かれている。
でも、"およげ!たいやきくん"(1975年)もおかしな曲だが大ヒットした訳で、当時の人々に何かがハマったのだろう。
"ハッピー・ジャック"も"およげ!たいやきくん"も、おかしな歌詞から垣間見えるものが、ペーソスを感じさせるのかも知れない。考え過ぎか…
で、このシングル盤の音なのだが、こいつが素晴らしく良い。
楽器はギター、ベース、ドラムのみだが、ベースとドラムの手数が多く、かつカッティング・レベルが高いので、音に厚みがある。
「鑑識レコード倶楽部」で「アンサンブルとしては見事な演奏だ」と書かれているが、音の良さ故にこの盤ではそれがよく分かる。
特にジョンが弾くベースがブリブリとした音で前面に出て来ていて、この音だけで気持ち良く聴けてしまう。
ということで、どうでもいい 変な曲 くらいに思っていた"ハッピー・ジャック"なのだが、「鑑識レコード倶楽部」という 変な小説 のおかげで、お気に入りの仲間入り。
それにしても、小説の冒頭に登場させるほど良い曲なのかぁ、と思ったが、いやいや違うなこれは。
変な小説 だから 変な曲 を冒頭に登場させたんだよこれは。
要するに「鑑識レコード倶楽部」も"ハッピー・ジャック"も 変 ということなのだこれは。
ちなみに、"ハッピー・ジャック"のUS盤にはピクチャー・スリーヴが付いているのだが、こんなデザインだ。
このデザインも 変 だよな。
で、この記事を書きながら思った。
「いま、地球上でこの曲聴いてたの、たぶん俺だけだ」
俺も 変 ってことなんだなぁ…